ベンちゃん

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夫の心臓弁膜症と向き合った記録。合言葉は「自分たちはついている」

S.S.

  • 1969年生まれ
  • 夫の病気(感染性心内膜炎、僧帽弁閉鎖不全症、大動脈弁閉鎖不全症)
  • 当事者の妻、専門職
夫の心臓弁膜症と向き合った記録。合言葉は「自分たちはついている」

体調が悪いのが日常だった

夫は喘息の持病があり長年通院を続けていました。忙しい日々で発作が起きることもしばしばあり、常にどこか体調が悪い状態が当たり前の日常になっていました。2011年頃、ふと聴診器で夫の心音を聴いたときに違和感があり、「一度、(喘息の)かかりつけ医に相談してみて」と伝えたことがありました。後日、夫からは「心雑音を指摘されたけど、それ以上の説明はなく、特別な検査もなかった」と聞きました。

その後も、夫は会社を任される立場になり、さらに忙しい毎日を送るようになりました。2016年頃には、ほとんど睡眠を取らずに三日三晩働くこともありました。もともと体調不良が日常ではありましたが、いつもの不調とは違う悪さを感じるようになっていきました。

以前、心雑音を指摘されていたことを思い出し、「一度、心臓の専門病院で診てもらった方がいいのでは」と受診を勧めました。その時の受診で、専門の医師から大動脈弁閉鎖不全症と説明を受けたと思います。私は診察に同席していなかったため、夫から「いずれ手術が必要になるかもしれないと言われた」とだけ聞きました。当時は、私も病気について十分理解できていなかったと思います。

原因不明の不調に悩まされる日々

2019年の年末、状況は一変しました。

夫が背部の耐え難い痛みと発熱を訴え、近くのクリニックを受診しました。何度か通院し、さまざまな検査を受けても、原因は分かりませんでした。抗生物質を飲むと一時的に症状は改善するものの、すぐに再び悪化してしまう。その繰り返しで、年が明けても状況は変わらず、不安な日々が続いていました。

当時、私たちは南九州地方のS市に住んでいました。かかりつけ医から県庁所在地の総合診療科を紹介され、1月中旬に受診。その日のうちに「感染性心内膜炎」と診断され、即入院が必要だと説明されました。原因がわからないまま過ごしていた時間が長かった分、「やっと分かった。これで治療ができる」と心からほっとしました。

S市の夕暮れ。直ぐ近くに綺麗な海がありました

ただ、その安心と同時に、現実的な問題にも直面しました。

S市から入院先の病院までは、車で長距離移動したうえでフェリーを利用する必要があります。電車はなく、バスも1日1本程度しかありません。これまで長距離の運転は夫に任せきりだったので、一人で帰宅して入院の準備を整え、再び病院に戻れるのだろうかと不安を感じました。

医師に相談すると、「一度2人で帰宅して準備をしてきてください。ただし、何かあればすぐ連絡を」と説明を受け、猶予をもらえました。診断がついてほっとした気持ちと移動への不安が同時に押し寄せてきたのを覚えています。

入院後は、S市から片道2時間半をかけ、週に一度病院へ通いました。飼い犬の朝の散歩を済ませてから車で港へ向かい、フェリーに乗る。病院で夫と面会し、着替えなどの荷物を入れ替えると、約1時間で慌ただしく帰路に着きます。そして再び2時間半かけて来た道を戻る。フェリーの時間に合わなければ家に帰れなくなるため、まるでシンデレラのように時間との勝負でした。

長距離運転に不安はありましたが、夫の治療のためだと思い、「自分にとっての挑戦なんだ」と考えるようにしていました。遠くを行き来する生活は、どこか冒険のようでもあり、そうでも思わなければ乗り越えられなかったのかもしれません。

船からの写真。病院が見えてきた。あともうすこし

「コロナを持ち込むわけには行かない」コロナ禍と重なった手術

夫は6週間の抗生剤治療を受けて感染性心内膜炎は改善しました。

ですが、医師から「心臓の弁に付着した菌の残骸(疣贅:イボ状の細菌の塊の残骸)が残っています。菌は死滅していますが、残骸が血流に乗って飛んで脳梗塞などのリスクがあります」と伝えられました。

また、「弁の動きもよいとはいえない状態ですし、そろそろ手術を考えてもいいかもしれません。いつ頃、どこで手術をするかはご家族で相談して決めて大丈夫ですよ」と説明を受けました。県内の別の病院や、夫の実家がある関西地方の病院など、複数の選択肢について夫婦で話し合い、「脳梗塞などを起こすかもしれない不安を抱えたまま病院を探し続けるより、この機会に手術を受けよう」と決断しました。

退院後は一週間だけ自宅に戻り、2020年3月に手術のため県内の大学病院へ入院しました。私は引き続き、毎週、大学病院のある県庁所在地まで通いました。

ちょうどその頃は新型コロナウイルスの流行が始まり「感染したら命に関わるかもしれない」と言われていた時期でした。「もし自分が感染して、それを持ち込んでしまったらどうしよう」との不安が何より大きかったです。

当時、私は小学校で働いていて、子どもたちと日常的に近い距離で接する環境にいました。子どもと距離を取るのは難しく、感染リスクを完全に避けられません。それでも職場ではできる限り人との接触を減らし、他の先生と距離をとるようにしていました。「付き合いが悪いと思われているだろうな」と感じながら、そうせざるを得ない状況でした。

当時は、とにかく自分が原因で夫に何か起こるのは絶対に避けたい、その一心でした。
「無事に手術の日を迎える」それだけを願いながら過ごしていました。

週に一度の面会。病室で一緒にご飯を食べる

「無理させてごめんね」と手術直後の彼を見て感じた

2020年3月に無事に大動脈弁の機械弁置換術、僧帽弁形成術、疣贅の除去を終えました。
手術当日は2人の娘たちも遠方から駆けつけていました。私が病院に滞在する間、一人は自宅に残り犬の世話をし、もう一人は私と一緒に病院に行きました。

手術直後の夫の姿を見て、最初に浮かんだのは「ごめんね」でした。今まで見たことのない夫のしんどそうな様子に、「本当に大変な手術だったのだ」と実感しました。同時に、私が不安から早く安心したい思いで、手術を急がせてしまったのではないかと後ろめたさを感じていました。私と一緒に面会した娘も、父親の辛そうな姿にショックを受け、黙り込んでいました。

彼は麻酔から完全には覚めておらず、しんどそうな状態でしたが、看護師さんが何かをするたびに「ありがとうございます」と丁寧に伝えていました。無理に気を遣わなくてもいいのにと思いつつ、どんな状況でも周囲に配慮できる優しい人だと改めて感じましたね。

術後すぐに出血性ショックの影響で、一時的に言葉が出にくくなることがありました。コロナ禍で直接は会えない時期だったので、後日、夫から電話で「こういうことがあったよ」と聞きました。電話では、普段通りに話せていたため、当時は彼の深刻さを十分に受け止めきれていなかったように思います。今振り返ると、彼にとっては大きな不安や恐怖を伴う出来事だったと感じています。

家族それぞれの関わり方

私の実家も義理の両親も遠方で、夫の入院中、すぐに頼れる距離には誰もいませんでした。双子の娘たちは、当時、それぞれ人生の大きな節目にいました。社会人になるため一人は福岡から関東へ、もう一人も東京で就職し生活の拠点を移す時期でした。引っ越しなどを手伝えませんでしたが、それぞれが自分の生活を進めながら、できる範囲で支え合いました。それぞれが自分の役割を果たしてくれたからこそ、私は夫の治療に集中できたのだと思います。

もう一つ、印象に残っているのが、夫の家族への情報共有の問題です。
夫は「心配をかけたくないので親には言わないでほしい。退院したら自分から伝えるから」と言いました。私はその意向を尊重しましたが、正直なところ葛藤がありました。

義理の両親から連絡が来るたびに「今は仕事で…」とごまかさなければならず、もし何かあったらどうするのか、との不安がありました。夫は実姉には状況を伝えてくれていたので、義理の実家で状況を共有し合える存在ができたことは、「自分一人で抱えているわけではない」と大きな支えになりました。

夫は「両親に心配をかけたくない」、私は「きちんと共有しておきたい」。その間で揺れながら、その時々で最善と思う選択を重ねていきました。家族の関わり方には正解があるわけではなく、それぞれの状況に合わせて形づくられていくものと感じています。

「守る」から「日常」へ。退院後から現在まで

2020年4月、夫は大学病院から自宅近くの病院に転院し、経過観察となりました。この頃は新型コロナウイルスの影響で面会ができず、荷物の受け渡しのために毎週病院へ通いました。転院先で頭部の検査を受け、「年齢相応で異常はない」と言われたときは、少しほっとしました。

夫は少しずつ動けるようになり、食欲が戻り「病院食が少ない」と文句を言うほどに回復。「あと少しで退院だね」と話しながら、退院の日を指折り数えて待っていました。

4月中旬に退院してすぐ、夫に九州地方から首都圏への異動の話が出ました。コロナ禍の真っ最中で、満員電車で通勤する生活になるかもしれない現実に、正直「大丈夫なのか」と強い不安を感じました。できるだけ感染リスクを減らすために、家探しは現地に行かずオンラインで進め、通勤はなるべく徒歩で可能な場所を選びました。引越しも感染リスクを最優先に考えて準備しました。それでも、「いつ感染するかわからない」と不安は常にありました。

異動の時期については、4月は退院直後で夫の体調が万全ではないので、会社に相談して8月まで先延ばしにしてもらいました。体調と状況を見ながら、無理のないタイミング選びを大切にしました。

首都圏への引越し後、私はしばらく仕事を離れていました。夫に感染させてしまうリスクを考えると、自分が外で働くことに迷いがあったからです。とにかく「守る」を最優先に、生活を組み立て直していた時間でした。

コロナの真っ只中に首都圏に引っ越し

現在、私たちは東北地方で暮らしています。夫の体調は少しずつ回復してきましたが、昔から喘息があり体調が万全な日がなかったので、生活は大きく変わってはいません。術後から脈拍のコントロールが難しく、薬で調整しながら生活しています。

ただ、以前より夫に無理をさせてはいけないという意識があります。大きな変化としては、夫が昔より仕事をセーブできるようになりました。そこは安心しています。

また、夫は言葉が出にくい感覚が続いていて、脳をずっと気にしています。定期的に検査を受けて異常がないことを確認していますが、本人は「言いたい言葉がすぐに出てこない」といったもどかしさがあるようです。日常生活に大きな支障はなく、年齢的な変化と重なる部分もあると思うので、これまで通り、前向きに支えていけたらと思います。

私は現在、こども園で看護師として働いています。感染対策を行いながら、日々子どもたちに向き合っています。体調の悪い子どもを見る役割なので、今の自分だからこそできる仕事です。

今後は、いつか二人で起業しようと話しています。夫はお酒を作りたいそうです。お互いに働けるうちはしっかり働いて、犬との生活も大切にしながら、準備を進め、いつか夢に向かって動き出そうと話しています。

東北地方に引っ越し。愛犬との昼下がり。お酒も飲めるようになった

「私たちはついている」、そう言い続けた理由

私たちの間では昔から「自分たちはついている」が合言葉でした。

今回も、原因が分からない状態から、地元の医師がすぐに大病院の総合診療科に紹介してくれ、その日のうちに感染性心内膜炎と診断されました。「運がよかったよね」「ここで分かってよかったね」「この先もきっとついているね」と話していました。できるだけ前向きに、そして重く捉えすぎないようにしていました。

家族でも相手の痛みや苦しさを本当には理解できません。代わることもできないし、「ここは半分こにしよう」と分けられない。だから、「わかる」と簡単に言えないと感じていました。痛みや手術への不安、長期入院への不安に寄り添いすぎれば、私が耐えられなくなるかもしれない。だからこそ、「これは人生の一つの出来事」「一つの挑戦」と捉え直し、「私たちはついている」「きっとうまくいく」と、あえて前向きな言葉を選び続けてきました。それは、意識して自分の気持ちを引き上げていた感覚に近いと思います。

また、不安な気持ちをそのまま言葉にすれば、相手に伝わり、さらに気持ちを落とさせてしまうかもしれない。だから、一緒に落ち込むのではなく、「一緒に上を向く」のが大切だと感じていました。そのために、「ついている」と思い込む、そしてそれを言葉にし続けてきました。そうして、自分を保ちながら、相手の支えになろうとしていたのだと思います。

最近の私たち。かなり元気になりました。夢に向かってGO !

診察への付き添いと病院選び。同じ立場のご家族へ伝えたいメッセージ

今振り返ると、初期の受診に付き添わなかったことを少し後悔しています。夫から聞いた内容だけで判断して「大丈夫なんだ」と受け止めましたが、実際には詳細な説明や手術の時期、日常生活での注意点など、大事な話があったかもしれない。ちゃんと私も把握しておけばよかったなと思いました。

人はどうしても都合のいいように受け止めてしまったり、先生が話しているより軽く捉えてしまったりするものです。だからこそ、大人だから一人で大丈夫と任せるのではなく、重要な受診には付き添い、二人で直接説明を聞いて状況を把握できればよかったなと感じています。重要な受診の場には家族もぜひ一緒に行ってほしいですね。

それから、病院や医師選びは、地域を問わず、できるだけ情報を集めて検討することの大切さをお伝えしたいです。

私たちはその時々で話し合いながら納得して選択してきましたし、夫も受けた治療に感謝しています。ただ、術後も脈拍の調整が落ち着かないなどの症状が続いていることもあり、後から色々な病院の情報を知り、「他にも選択肢があったのではないか」と感じるのも事実です。

こうした経験から、これから同じような状況になる方には、できるだけ情報を集め、複数の選択肢を比較しながら検討していくことが、納得や安心につながるのではないかと思います。例えば、「どんな症例が得意な病院なのか」「どの先生がどんな手術を多く行っているのか」といった情報を集めるのは難しいですが、確認できる範囲で知っておくことが、その後の経過の受け止め方にも影響するように思います。