庄司 進(しょうじ すすむ)
1969年生まれ
感染性心内膜炎、大動脈弁閉鎖不全症、僧帽弁閉鎖不全症、左硬膜下血種
会社員
はじめに-体験談を寄稿するにあたり
体調が悪くなってから手術を受け退院の日を迎えるまで、多くの医療関係者に大変お世話になりました。
とりわけ適切に処置・指示をくださった地元のクリニック院長、感染性心内膜炎と診断してくれた総合病院の循環器内科の女性医師、執刀いただいた大学病院の若き心臓外科医には本当にお世話になりました。また、何より支えてくれた妻に本当に感謝しています。
この感謝の気持ちをどのように世間様にお返ししようかと考え、定期的な献血を決意しましたが、輸血を受けた人は献血ができないと分かり、断念。代わりに少しでもお役に立てればと思い、今回体験談を投稿させていただくことにしました。
涙が止まらなかった手術前夜
2019年12月22日、これまで経験したことのない倦怠感と、肩甲骨・背部肋骨周辺に意識を失うほどの激痛に襲われました。
ただ事ではないと、地元のクリニックを受診。当初はリウマチ性多発筋痛症や膠原病が疑われましたが原因はわかりませんでした。しかしクリニックの院長は、総合病院に転院してしっかりと原因を究明するよう指導してくれました。
総合病院へ転院し、検査を経て診断されたのは菌血症。初めて体に異変を感じてから、26日後の2020年1月16日のことでした。翌日に緊急入院し、その後の経食道心エコー検査などを受けて1週間後に感染性心内膜炎と診断されました。感染性心内膜炎の原因は連鎖球菌が血液に入り込み心臓の内側に付着したためでしたが、睡眠不足と過労で抵抗力が低下したことが引き金となったようです。
入院して、胸・頭部のCTやMRI、経食道心エコー、血液検査を受けながら、ペニシリンを6週間静脈投与して快癒を目指しました。しかし「退院前の卒業試験」と言われた二度目の経食道心エコー検査では、感染性心内膜炎の症状が全く改善されていないことが判明したのです。
私は2016年に大動脈弁閉鎖不全症と診断され、2019年には血液の50%以上が逆流してると告げられました。「いずれ心臓の手術が必要になる」と指摘されていましたが、地域のリレーマラソンへの参加をはじめ、ゴルフや会食、夜を徹した業務でも体調面に不安を感じることはありませんでした。
しかし、感染性心内膜炎によって僧帽弁に疣贅(ゆうぜい:イボ状の細菌の塊)の付着が認められ、放置すると数年以内に高い確率で脳梗塞などを誘発するリスクがあると説明を受けました。疣贅の除去や僧帽弁の形成手術、大動脈弁の機械弁置換手術をできるだけ早く受けた方が良いと聞き、手術を受けることを決めました。
手術前日の夕方には、執刀医から手術や術後の経過に関する説明がありました。
再入院時に、疣贅を取ることで脳梗塞などの発症リスクは減少すること、大動脈弁の逆流は若いうちに手術をすることで健康的な生活をより早く取り戻せると説明がありましたが、前日には、術後にせん妄1の症状が出た際の病院側の対応や、人工呼吸器の抜管は苦しい場合があること、そして手術中事故の発生確率について丁寧に説明していただきました。
手術の覚悟は決めていました。しかし、二度と意識が戻らない場合があると告げられると今更ながらに不安に襲われ、大好きな妻に二度と会えなくなるかもしれないと思うとやるせない気持ちになりました。
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」とは、若き日の親鸞聖人が得度を受ける際にお話しされた言葉だそうですが、まさに「明日があるかどうかはわからない」という気持ちになりました。
まんじりともせず夜が更けていき、姉と勤め先の方数人に万が一の際には妻の力になってくれるようお願いを書きながら「なんでこんなことになったのか」と残念で涙が止まらなくなりました。
1せん妄
手術などをきっかけに起きる意識精神障害で、特に高齢者に発症しやすいと言われています。
主な症状には妄想や幻覚、認知機能障害があり、一般的に数日〜1週間程度で収まります。
術後、体と心が癒えて前を向けるまで
いよいよ迎えた手術当日の2020年3月5日、疣贅の除去と大動脈弁の機械弁置換術、僧帽弁形成術を受けました。
手術時間は予定より長丁場になったものの、無事終了。翌日の昼に妻がICUに面会に来てくれました。痛みや視界の悪さなどが重なり意識が朦朧としていましたが、おぼろげに妻を見たときに「戻ってきた!」と嬉しく感じました。
ただ、私の場合、術後は様々な合併症が出て大変でした。
開胸手術による胸部と背部痛、激しいめまい、靄に包まれたような視界の悪さと浮遊感に悩まされました。さらに術後12日目には、頭部静脈からの出血性ショックが原因で言語障害が発生したのです。
再出血を防止するため抗凝固薬(ワルファリン)の投薬量を調整した関係で、今度は血液の凝固能を示すINR値がなかなか上昇せず、大学病院から地元の中核病院へ再転院して治療を続けました。
4月中旬に退院できるまで、妻はひと時の面会のために、毎週片道2時間半をかけて船にのり海を渡って会いに来てくれました。
入院中、妻と一緒に食べる昼食が何よりの楽しみでした。病棟の大窓から船が港に入るのを見ては喜び、妻をのせた帰りの船が岸を離れゆっくりと回頭して港外に出ていく際は、いつも煙が見えなくなるまで見送っていました。
手術のことは父母には伏せていましたが、早く元気になって顔が見たいと思っていました。事前に知らせていた姉は故郷から飛行機に乗って会いに来てくれ、とても嬉しかったのを覚えています。
また、職場の方々が遠路はるばる見舞いに来てくれました。長いお休みをいただいて申し訳ない気持ちでいっぱいになりつつも、ありがたかったです。
手術を受けて、今年の6月で27カ月が経過しました。
手術の痛みも和らぎ、頭痛やめまいもほとんどなくなりました。発語障害は直後に回復。当初は言葉の意味が理解しにくい、思い通りの言葉が出てこないなどの後遺症にも悩まされましたが、これらもほとんどなくなりました。
執刀医から「時間が癒してくれる。術後3日、3週間、3カ月、3年とどんどん回復していく」とお話しいただいた通り、私の場合は靄が晴れるのに3週間、痛みが和らいで仕事に復帰するのに3カ月、思った言葉を話せるようになるのに11カ月、色々なことに意欲が湧くのに18カ月かかりましたが、時間はゆっくりと静かに着実に病気と心を癒してくれています。
最近は、妻と二匹の柴犬に囲まれて楽しく暮らし、新しい職場では人事の仕事に取り組んでいます。まだまだひよっこですが、これまでの経験を活かして少しでも役に立てるよう、皆さんから毎日千本ノックをいただいています。
また、すっかり弱くなってしまいましたがお酒も飲めるようになり、毎日の晩酌は私にはなくてはならないリフレッシュの時間となっています。
自分の体と向き合う大切さ
今回手術が必要となった原因は、私の場合は「働きすぎ」と「睡眠不足」だと思っています。
初めて激しい痛みに襲われた日の前日には、勤め先の新工場の竣工記念式がありました。当時私は生産材を作る会社の代表取締役として、多忙な毎日を過ごしていました。
特に11月からは新工場の最終調整や試運転、監督官庁の受審対応、生産開始と初出荷に年末の繁忙期が重なり、連日連夜の長時間勤務にお客様との会食など、力任せの仕事ぶりでした。竣工記念式が終了し緊張の糸が解けて疲れが一気に押し寄せたのだろうと考えています。
2016年に大動脈閉鎖不全と診断されて以降も、何ら生活に支障がなく、また心臓手術を受けなければならないという実感もわかず、何より仕事の楽しさにかまけて仕事人間を続けてしまったのは大きな反省です。
何気ない毎日も、大切な“勝負”の日
長年の無理と無茶がたたって体調を崩して手術を受けましたが、元気になった今、本当に一日一日を大切にするようになりました。
機械弁の置換を受けたので生涯、抗血液凝固薬と心筋保護薬を服用することとなりました。飲み忘れを防ぐために記録を毎日つけていますが、そのノートの表紙には「柴犬みたいに尻尾を上げろ!」「毎日が勝負!」など毎冊記しています。
まさに「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」です。
日々回復し続ける私から、この体験談を読んでくださる方への一言
これから手術を受ける方は、不安や痛みに対する恐れを持たれていると思います。
私にはこれまでの仕事ずくめの生活や妻からの忠告を聞き流してきた反省しかありませんが、主治医と納得できるまで話をして、場合によってはセカンドオピニオンを求めても良いかと思います。
大切なことは自分がその医師を信頼できるかということだと思います。
「ゴットハンドと言われる名医を探さなくてよいのか」とか、「セカンドオピニオンを聞いたほうが良いのでは」とのアドバイスをいただきましたが、地元のクリニックから総合病院、大学病院まで全幅の信頼を置ける先生方に出会えました。皆さん、まっすぐに目を見て真摯に語りかけてくれる医師でした。
もし、信頼できる医師に巡り合えない場合は、セカンドオピニオンを受けるのも一つの手段だと思います。手術に最適な時期を含め、複数の医師から話を聞いて、自らの意思で判断をするしかありません。
少なくとも「早いうちに受診し、手術を受けていればよかった」と後悔しないように、今後の生活の質や予後が改善される可能性のある治療や手術を選択するのが良いのではないでしょうか。
手術から27カ月が経過した今も、私は日に日に回復を続けています。
今は人事の仕事をしていますが、定年後には何かもの作りをして世界中に紹介する事業を立ち上げたいと思っています。またいつかワクワクする仕事ができる日を楽しみにしています。