Fun Run! 走ることで気づいたこと

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鏡味 正明 (かがみ まさあき)
1961年生まれ
心臓弁膜症ネットワーク 理事
After Surgery Fun Run協会業務執行理事
「心臓手術をした人も一緒にジョギング&ウォーキング大会」主催
僧帽弁閉鎖不全症に対する僧帽弁形成術を経験

鏡味さんのお写真

走る喜び

「お誕生日おめでとう!」「お誕生日おめでとう!」
沿道でランナーを応援する声に囲まれて走るのはこんなに気持ちいいのに、さらに自分の誕生日を祝ってくれる声に包まれる。こんな嬉しいことはない。そう思ったのが2010年2月2月28日の東京マラソンのことでした。まだ手術をする前のことです。

心臓の手術をしたのは2013年9月。
手術後、大事な取引先とのミーティングに照準をあわせて自分の体調を整えていったのですが、いかにも病み上がりに見えたのでしょう。その取引先の方からは労りの言葉をかけられました。
「これってプロとしていかがなものだろう」と、かかる言葉に有難いと思う反面、複雑な思いに駆られました。だからこそ自分が回復した証を取引先や周りの方々に見せたかったのです。

2016年2月28日。
手術前に走った時の「お誕生日おめでとう!」が忘れられなくて、再度東京マラソンのスタート地点に立ちました。今度は「お誕生おめでとう!」の声だけではなく、自分にかけられたのは「手術をなさったんですね」の声でした。

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心臓手術後初の東京マラソン

背中のゼッケンにかかれた「心臓手術後 初マラソン ありがとう」を見たランナーの女性が「私、乳がんで昨年手術をしたんです」と声をかけてきました。また「明日から抗がん剤治療がはじまるんです」と話した男性もいました。他にも「実は家族が手術をする」という人もいました。こんなに手術をしている人たちが世の中にはいるのだ、とその時思いました。

マラソン前に「先生、今度の東京マラソンに出るから豊洲 (38Km地点) で迎えてよ」そう言う私に「もちろんいくよ」そう言って執刀医の山口先生は自分を送り出してくれました。そして約束通り沿道でスタッフとともに笑顔で迎えてくれました。

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豊洲で迎えてくれた執刀医の山口医師と一緒に

自分が手術後にフルマラソンを完走し「完全復活」と思ってもらえることが何よりの自分の励みでした。それ以上に「走る」ということが、単に走ること以上の意味をもつことをその時に知ることができました。

ジョギングの途中で心不全の症状が襲った

実は、自分の病気について苦労をしたとはあまり感じていません。
学生の頃は運動部に入っており、社会人になっても体力にはそれなりに自信がありました。これまで大病をすることもなく生活してきた自分に「急に手術をしなくてはならない状況が目の前にやってきた」。ただそれだけのことだと思っています。

心不全の症状が自分を襲った日は、仕事が忙しく、あまり走れない日が続いていた時でした。数キロ走ったくらいだったと思います。突然、咳がでて走れなくなりました。「息が切れる。歩けない!家までもう少し、あと少し。苦しい!」往復10キロのコースが果てしもなく遠く感じました。

数日後、地元の循環器専門病院で検査を受けました。その時「ひどく逆流している。手術しかないね」そう言われました。まだ52歳ですし、まだまだバリバリ仕事もこなしていかなくてはなりません。仕事を休みたくありませんでした。下の子供はまだ高校生で、ちょうど受験の年でした。家族に心配をかけてはいけないというのもありました。

この発作の数年前に風邪で医療機関にかかった時に「心臓に少し雑音が聞こえます」と言われたことがありましたが、あまり気にも留めていませんでした。とにかく仕事に没頭していました。多分、日常生活において支障がなかったため自分の心臓の具体が悪いこと自体を否定していたのかもしれません。自分には病院に行っている暇はありませんでした。

さらに診察時に言われた「運が悪かったね」の一言も気に入りませんでした。なぜ自分が病気になったのか、その原因をちゃんと知りたかったのです。今では「運が悪い」というのは医学的に原因がわからないということだと理解できるのですが、十分な説明のないままに「運」で済ませてほしくないと感じました。

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心不全が起こったのは52歳、まだまだ働き盛りの年齢だった。

そこで僧帽弁閉鎖不全症のこと、手術のこと、治療のこと、病院のことなど、とにかく情報を集めました。色々と調べていくうちに、ここなら自分の体を預けられると思った病院が数軒見つかりました。その中で家から近く、自分の親がカテーテル手術してもらった権威の先生の勤務先という病院に縁を感じた、それが病院選択の理由です。

地元の病院にはセカンドオピニオンを受けると言って、見つけた病院に行きました。いくつかの検査を経て、執刀医となる先生に病状の説明をされました。「手術はいつにしますか?」と尋ねられたので「執刀は先生がするのですか?」と質問すると「私がちゃんとやります」と答えてくれたので、そこから先は復帰への道しか頭にありませんでした。

入院中の嫌な思い出

入院をするということはどうしても仕事を休まなくてはいけません。お世話になっている取引先には迷惑をかけられないので、可能な限り自分がいなくても仕事が回るように配慮をしました。

「なんとか早く退院をして、ちゃんと復帰したところを見せたい」という思いが強くあり、そんな様子だったせいか、家族もそれほど心配していなかったようでした。

ところが手術は10時間かかりました。なかなか手術室から出てこないことでさすがの家族もそこで初めて心配をしたと、今では笑い話のように言います。

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入院中も、常に頭にあったのは仕事への復帰だった

手術後は数日間ICUに入りました。正直言ってあの時の自分は酷かったと思います。術後のせん妄から、どうやら暴言を吐きまくっていたのです。どうやらというのは、明確な記憶がないからです。もともと造影検査で蕁麻疹がでたことなどからも本当に麻酔などが自分にあわなかったのではないでしょうか。

送管チューブを入れたのですが、抜いた後もしばらくのどが痛くて好きなパンも食べられなかったことも苦痛でした。これらは入院中の嫌な思い出です。

After Surgery Fun Run

After Surgery Fun Run (以下ASFR) は、以下を理念にジョギングやウォーキングをみんなでする団体です。

  1. 病気からの快復のきっかけに
  2. 医療関係者が快復後の患者と接する機会に
  3. 地域の人々の運動のきっかけに
  4. 元患者が暮らしやすい社会に

これは自分を執刀してくれた山口先生と一緒に始めた活動です。

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2017年の東京マラソン

先にお話しした手術後に走った東京マラソンこそが、思わず知った病気の人や家族の思いでした。そのことを山口先生や病院のスタッフに話をしたところ自分を応援してくれ、その輪が今や患者やその家族、医療者と共に大きく広がりを見せています。それがASFRに繋がりました。

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After Surgery Fun Runを通し、多くの仲間を増やしたいと語る鏡味さん

活動を継続するのは決して楽ではありません。しかしイベントが終わった時のみんなの何とも言えない笑顔、笑顔、笑顔。自分が走った爽快感だけではない達成感。これを感じたくて、活動を辞められなくなくなってしまった自分がいるのです。

今後は世界中にASFRの仲間を増やしていきたい。そんな夢をもっています。

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